交差点にて


その男は、もう何度そのスクランブル交差点を渡ったかわからなかった。取引先との往復は、何ヶ月も前から続けていることだった。今日こそ契約書にサインしてもらわねば、今月のノルマに届かない。男はそればかり考えていた。

その巨大なスクランブル交差点の歩行者信号が、緑色を光らせた。一瞬の空白、人々の流れに流されるように、男は歩き出した。

たくさんの人―――サラリーマン、OL、女子高校生の集まり、アベック、親子連れ―――が、この瞬間に何度も何度も交じり合いながら、灰色の道路の上を歩いている。まるで渦巻いているようにそれらが交差していく姿に、どこかかすかに人々の人生に触れながら進んでいる気がする・・・と、男はそこまで考えて、俺は何をばかげたことを考えているのだと、自分に苦笑いした。

交差点を渡りきり、そのまま歩道を直進しようとした時、男は妙なものに目を引かれた。交差点を見守るように中央に立っているブティックのガラスに、少女の背中が映っている。洋服はつぎはぎが見られ、髪の毛はぼさぼさだった。急に男はその少女に興味がわき、立ち止まった。そのとき太った男の体にぶつかったが、太った男はそちらを見ようともせずに流されていった。

男はガラスケースの下を見下ろした。今の今までそこに少女がいる気配もしなかったが、見下ろすと、やはりそこに少女はいた。体育座りをしながら、澄んだ目で交差点の人の流れを見ている。男は、詩集でも売っているのか、それとも靴磨きでもしているのかと一瞬考えた。

その時、少女は突然顔を上げて、男の目を見た。不思議なことに、少女は驚いたような顔つきだった。男はその状態で固まってしまった。澄んだ瞳だ。アフリカの飢饉とかでよく見る、あの、吸い込まれるような澄んだ瞳だ。よく見ると、少女の周りには詩集の山も、くつみがきのクリームも、お金を投げ入れるための空き缶もなかった。男は、少女がなぜここにいるのか―――というより、何をしているのか、が気になった。男には、少女がただ人の群れを見ているだけに思えなかったのだ。
少女が口を開いた。
「あ・・・」
言葉を言いかけたが、また口を閉じてしまった。顔はまだ驚いたままだった。男は急にどうしたらいいのかわからなくなってしまい、困惑の表情を浮かべた。少女は表情を緩めた。
「あなたも・・・ですか?」
思いがけない質問に男は困った。しかし、なぜだかこの少女に妙な親しみを覚えた。男も口を開いた。
「何を・・・しているの?」
「それは・・・」
少女は目をそらした。すこし沈黙が流れた。男はやはり興味が出てきて、少女の返事を待った。
「あちらのほうへ、行っていました・・・。」
少女は何を言っているのだろうか。少女はあいかわらず体育座りをしていたし、目線の先は何も見ていないような気がした。
「あちら・・・って?」
少女は返事の変わりに、さきほどのような澄んだ目で交差点を見つめた。それが返事だったような気がした。男はふとカバンをガラスケースに立てかけ、少女と並んで体育座りをしてみた。

奇妙な感じだった。人間の群れがせわしなく動いているのがイヤでも目に入った。だんだん目が回ってきたような気がした。そのとき、みずほらしい外見の少女と、スーツ姿のサラリーマンが並んで体育座りをしているこの奇妙すぎる状態を、だれも気づいていないのかが気になった。
ふと男は、ここまで自由な時間はずいぶん久しぶりに感じた。ふだんは時間に追われながら相手先を飛び回り、ファーストフードで食事をすませ、夜は居酒屋で同僚と酔っ払い、そのまま家へ帰り、倒れるように眠る・・・そのような生活では、決して生み出されない時間を男は今、味わっているような気がした。そうだ、無になってみよう。男は思った。
心を落ち着けて、何も考えずに人ごみを眺めた。車の音、話し声、足音・・・周囲の雑音が、いつのまにか気にならなくなってきた。
こんな気持ちは初めてだった。いや、前にも経験したこともあるような気がした。しかし、それがいつか思い出せそうもなかった。
人間のせわしない動きが、ぼんやりと感じるようになってきた。

そして、その瞬間は訪れた。
どこからともなく、どう、と、風が吹いてきたような気がした。体は何も感じなかったが、それは心地よい響きだった。
男は、だれもいない交差点にいた。あれほどたくさんの人が行き交っていた交差点に、沈黙が流れた。さびしさは感じなかった。むしろ、今まで感じたことのないくらい静かな風景が、心地よかった。
「ようこそ、おかえりなさい。」
少女は、静かに言うと、やさしく微笑んだ。










あとがき
渋谷の交差点を妄想していたら生まれた小説。
サイトのリニューアルにあわせて、少しだけラストの少女の台詞を変えました。彼にとって、少女は何の象徴だったのか、色々推理して楽しんでいただけたら幸いです。

あなたには あちらの世界は 見えますか?